今のインターネットは「たたきまち」すぎないだろうか

昨今のインターネットは、とかく「たたきまち」になっていないかと、ふと思った。自分自身、ネット上で流布される文章に関わる仕事をしているが、外部に公開する際に「炎上しないか」を実に気にする。

「いかに炎上しないかがこれからの時代は大事だ」なんて話がささやかれ、それに賛同する声も少なくない。全く誰も傷つかない文章というのは、実に難しい。特にそこに著者の意見が盛り込まれれば、必ず反対意見が含まれる。しかし、むやみやたらに鋭利なナイフをちらつかせる必要はない。

言葉というものは、常に誰かを傷つける可能性があって、だからといって、そればかり気にしていては、文章稼業は書く意味を失う。だから、それなりにナイフの方向性は気にしながらも、自分の意見を発することは大事だと思っている。

しかし、だ。それとは別に、ある種の「たたきまち」という状態が、ここ数年ずっと続けいていると思う。

例えば、ここ数日盛り上がっている「お金を使ってくれる人がファンである」との話だ。個人の意見であるがゆえ、その人がそう思うならそうなのだろう。お金を使ってくれる人を大事にしたいならそれで良い。それで離れていく人がいるのも分かっての発言で、それでも「そうなんだ!」と考えた上で発信するからこそ、ついていくファンも多いのだろう。

問題なのは、それに対しての反対意見=叩く人をいちいち取り上げることだ。

「お金を使ってくれる人がファン」という意見があれば、「お金を使ってくれる人がファンとかいうやつは守銭奴だ」という意見もでるのは、当然といえば当然だ。何も悪いことではない。それぞれが、それぞれの意見を持ち、それぞれが心地よい世界で呼吸すれば良いだけだ。

自分と違う意見の人に、いちいち文句を言うのも自由だし、何か反論があったから、それに対して自分の意見の正当性を言うのも自由だ。ただ、それにしてもあまりに「反対意見があるようですが…」という文脈が溢れすぎていると思う。

ファンを大切にしたいと思っている人たちにとって、自分の正義が正義であるというのを誇示するのも大事なのかもしれないが、ファンとして「そうだね!いい意見だ」という人たちの声を大切にしていればいいのではないかと。

少々話が変わるが、あるアーティストのファンだと公言していた人が、気づけばファンを辞めていたということはよくある。「あれ?ファンじゃなかったんだっけ?」と聞くと「うん。なんか飽きちゃった」みたいな会話は日常茶飯事だ。しかし、この「気付けば」というのは、ちょっと昔の話。SNSが普及する前は、ファンであることを辞めてもいちいち宣言しなくてよかったから、なかなか気づきづらかった。しかし、最近は「もうファンやめます」なんてことをいちいち声高々に言わないといけない感じがある。

そしてそれを表明する際には、何故やめるのかの理由を、いちいち付け加えるのだ。SNSで多くの人とつながるこの世の中だ。1億相互監視社会とでも言うべき状況の中では、何か変化があるたびに、いちいち報告しないといけない流れがある。実にめんどくさい。

そして、そのネガティブな報告をする時にかならず用意するのが、反対意見への反対意見。つまり「たたかれる」ことを想定してのカウンターパンチなのだ。

先程の「ファンとは?」の話でもそうだが、こうした「反対意見」への準備をあまりにしすぎていないかということだ。人は自分に自信がない。自分の意見が正しいかが不安になる。だから、反対意見には賛同者の意見よりも、つい脊髄反射してしまう。

しかし、だ。さきほどの「お金を使ってくれる人がファンだ」という意見を持っているなら「ちーーがーーうーーだーーろーー!!!」と言う人は、すでに“その人にとって”のファンではないのだから、いちいち反論する必要はないのではないだろうか。

「そうだね!そのとおり!」と賛同してくれる人の意見よりも、「はあ?!なにいってるの?!」という反対意見を先に取り上げる。応援している人からすれば「なんで応援してくれる人の意見を取り上げず、反対意見のやつばかり優先して取り上げるんだ?」と不満になる。

ちょっと論争を呼ぶかもな…と思いながらも発信する意見を世に出す時、あきらかに反対意見=たたかれることを想定して、それに対しての答えを用意している人が実に多い気がするのだ。ましてや、最初からそういった反対意見に対しての回答を想定しているだけに、たたかれたら「はい、待ってました」とばかりに、それへのアンサーをドロップする。ラッパーなのかな。

言うならば、予想外の反応ではなく、たたかれることを予想して、それに対しての意見も出す準備をしている「たたきまち」状態にあるのだ。

実にさもしい。

インターネットは実に自由だ。多様性の社会にふさわしい。それぞれがそれぞれの意見を持ち、それに賛同する人と出会い、つながることができる社会だ。そして、例え1つの意見で賛同しても、別の意見ではぶつかることもあるのが、多様性なのではないだろうか。

賛同する意見ばかりに耳を傾けては盲目になる。そして、賛同してくれる人を守るためにも、反対意見にカウンターパンチをくわらせないといけない気持ちもわかる。しかし、まるで「たたかれる」ことを期待しているかのような、賛同者をおいてけぼりにして、先に反対意見ばかり取り上げる人が実に多く感じ、見ているだけでとても悲しい気持ちになる。

テレビのワイドショーをつければ、誰が悪いのかと叩き、週刊誌を開けば、誰かを悪者に仕立て上げ、ネットを開けば殴り合いが繰り広げられている。

命を奪わずとも、結局は人は争わずには生きていけないのか?と、ただただ悲しくなる。

「そんな、意見もあるのかー。わしはこっち派じゃよ、ほっほっほっ」「お、全く反対の発想だね!意見が違って興味深いね!」なんて感じで、笑顔で会話できる日々はどこにあるのだろうか。そんなインターネットを私は見ていたい。

黒宮 丈治
1978年生まれ、福岡県出身。書き手・編み手・企手。30種以上の職を渡り歩いた後、フリーライター/プランナーとして活動開始し、現在は編集者としても活動。ライターとしては取材記事を中心に、エンタメからビジネスまで幅広く執筆。